私は自分が「モノ」を見るとき、そしてその好き嫌いを判断するときに、無意識に次のような4つの階層を感じているのではないかと思っています。
- 歴史……そのモノが発展してきた時間的な背景、文化的な正統性。
- 実体……モノ自体が備えている機能、品質、設計などの完成度。
- 状況……モノが誰にどう使われ、その人とどんな時間を共にし、今どのような状態か。
- 記号……モノに付与された、他者の目に対して発するイメージやメッセージ。
もちろんこれらは互いに複雑に関係しあっているものではあるけれど、私が「自分のモノ」に対して抱く理想は、①歴史と②実体に最大限の敬意を払い、③という自分自身の物語を大切にしながら、④の記号性を極限まで薄く保つことにあります。

靴そのものが実体を雄弁に語るのに対し、箱やショッピングバッグは記号の権化のようなものですね
なぜ記号性を薄く保ちたいのか
モノが持つ記号は、一般に「ブランド性」や「ステータス」の大小として認識されることが多いものです。そして、記号は記号であるゆえに、ひとたび認識されれば素早く伝達されます。だから、記号性の強いものは、たとえ実体がどれだけ素晴らしくても、他者の目からは真っ先に「記号として良いもの」と判断されがちです。そこにあるのはまずブランドの威光であり、もともと存在するはずの「歴史」「実体」「状況」への真摯な視線は、往々にして覆い隠されてしまうのです。
本来、ブランドというのは、作り手が買い手に対して「確かな歴史や実体を備えていますよ」ということを示し、買い手が作り手を信頼するための署名のようなものです。その署名さえ機能していれば、ブランドは外に見える必要など一切なく、あとは「実体」と「状況」がすべてだと考えています。
もし誰かが私のモノを見て、その「歴史」や「実体」や「状況」を賞賛してくれるなら、それはもちろん嬉しいことです。一方で、記号への安易な賛辞を受けるほど居心地の悪いことはありません。
つまり、私にとって、記号を身に纏うことはノイズなのです。
J.M. Westonは「300」に限る
以前「革靴の本体は中底である説」という記事の中で、J.M. Westonについて触れました。J.M. Westonといえば、多くの人が思いつくのは「180シグニチャーローファー」や「641ゴルフ」ではないかと思います。また、ジョドファーやハント、ハーフハントなども、「ウエストンと言えば」という文脈で語られやすい靴でしょう。
しかし、私にとっては、そうしたモデルは「記号」として少し饒舌すぎます。靴という実体や私自身のストーリーよりも先に、「ウエストンというブランドの物語」を看板としてぶら下げて歩くようで、そこに居心地の悪さを覚えてしまうのです。
そんな中で、「300」は、キャップトウ・オックスフォードというデザイン自体が饒舌さから最も遠い存在ということもあり、純粋にJ.M. Westonの良さを味わえるという点で、これに勝るものはないだろうと感じます。
また、ここからはより一層個人的な選択になりますが、色はダークブラウンを愛用しています。それは、J.M. Westonというブランドの文脈からも離れると同時に、黒のキャップトウが持つ「かしこまった場所」という社会的な文脈からも少し距離を置きたいから。真っ黒にしないというだけで、ぐっと日常の風景に溶け込む靴になります。

歩くたびに「状況」を伴って日常に溶け込んでいく靴
私が革靴を好きな理由
微妙なところを気にしすぎではないか、というご意見は甘んじて受けます。180ローファーやゴルフを見てそれとわかるのは、その時点で相当な靴好きだけかもしれません。そして逆に、300を見て「あ、ウエストンだ」と瞬時に判断できるレベルのマニアも世の中にはいるかもしれません。
靴においては、記号が表に現れてくるかどうかというのは、かなり控えめでグラデーションのあるポイントなのです。そして、だからこそ、私は革靴が好きなんだろうなと思います。
革靴のように実用を兼ねた嗜好品として、たとえば、腕時計を考えてみましょう。靴であれば「中敷きやソールまで覗き込まなければブランドロゴが見えない」というのが極めて普通のことであるのに対し、文字盤にロゴを配していない時計は稀です。敢えてロゴなしを選ぼうとすると、それが良い時計であればあるほど、今度は「ロゴがないこと」自体が強烈なアイコンとして目立ってしまうでしょう。私は、こんなふうに、常に看板とセットで語られる世界とのうまい付き合い方がわかりません。
もっと過酷なのは車ですね。外観そのものが巨大な「看板」であり、匿名性を楽しむ余地などどこにもありません。記号に対する他者からの反射的な賞賛など邪魔なだけ、だからといって、単なる安物で済ませたいわけでもない。そんなわがままを叶えるのは絶望的とも言えます。
靴がわがままを叶える
そう、今日ここに書いた内容は、現代社会においては絶望的なほど非効率な、私の「わがまま」なんだろうと思います。そして、そんなわがままに応えてくれる数少ない存在が、革靴であるということです。
歩き方に合わせて刻まれる皺、手入れによって如何様にも変化していく光沢。それは、ブランドが用意した「歴史」と「実体」の上に、私自身の歩みという「状況」が確実に、そして不可逆的に上書きされていくプロセスです。「記号」としての「ウエストン」はどんどん背景へと退き、代わりに「私という人間の道具」としての存在感が深まっていきます。
記号のノイズから切り離されたその静寂こそが、私がモノに求める贅沢なのだと思います。

変化するJ.M. Weston 300