Abbeyhorn社(アビィホーン/アビーホーン)は、主に動物の角や骨を使用したハンドクラフト製品を製造・販売する英国の企業です。1749年創業、270年以上の歴史を誇る老舗であり、日本では主には靴関連アイテムとしてシューホーン(靴べら)やコードバンケア用の「レザースティック」などで知られているのではないでしょうか。

Abbeyhornの携帯靴べらは私もよく使っています
ただし、実際にはAbbeyhorn社が製造しているのは本当に様々な生活用品で、日本のファンも必ずしも革靴愛好家だけではなく、櫛(コーム)などを愛用している人もいるようです。
しかし、ここからが本題です。様々な場所でいかにも「これが英国の伝統だ」というイメージで語られている情報のいくつかは、実は日本という島国で独自に育まれたものなのです。
その靴べらは本当に水牛ですか?
日本のショップでAbbeyhornの靴べらを探すと、必ずと言っていいほど「本水牛」「水牛の角」という説明書きを目にします。
しかし、Abbeyhornの公式サイトでは、日本の販売店でよく見かけるシューホーンはすべて「Cow Horn / Oxhorn」と記載されています。そして、Abbeyhorn社は様々な製品の主原料であるCow Horn / Oxhorn(牛の角)と Buffalo Horn(水牛の角)を、素材特性から生物学的分類に至るまで明確に区別しています。公式サイトの説明を簡単にまとめると次の通りです。
- Cow Horn / Oxhorn(牛の角): 主に西アフリカ産の家畜牛であるアンコーレ牛の角です。Abbeyhorn のシューホーンの主力素材であり、白、茶、オレンジ、黒が混ざり合う独特の透明感と模様が特徴です。
- Buffalo Horn(水牛の角):インド産のアジアスイギュウ、いわゆるウォーターバッファローの角です。色はほぼ全体が均一な黒色をしています。Abbeyhornでは傘のハンドルやドアノブなど、ごく限られた製品に使用しています。
アンコーレ牛などの「ウシ」は、「スイギュウ」とは生物学的に別種で、遺伝的にも交配して子孫を残すことはできません。
これがなぜ日本では「水牛」と表記されるのか。日本の工芸品や印鑑の業界での商習慣が影響している可能性があります。日本では古くから、高級な角素材全般を指して「水牛」と呼ぶ慣例がありました。
印鑑の世界では「オランダ水牛」と呼ばれる素材があります。これも実際は「オランダ」でも「水牛」でもなく、オーストラリアやアフリカ、東南アジアから産出される、食肉用の牛の角です。(オランダの植民地だったタイ産の角を使用していたことからオランダ水牛と呼ばれた、なんていう説があるみたいです。)
印鑑業界では、この表記は是正されつつあります。印鑑を販売している企業のウェブサイトを見ると、「牛角(うしつの)」という表記を用いたり、「オランダ水牛(牛角)」と併記したり、仮に「オランダ水牛」と書く場合でもそれが実際は水牛とは異なるという旨を詳しく説明したり、消費者の誤解を生まないように様々な工夫がなされている場合が多いことがわかります。
しかし、靴ケア業界においては、この「高級な角=水牛」という古いイメージだけがそのまま引き継がれ、今日でも「本水牛」という表記が一般化しているのかもしれません。
日本特有ともいえる「世界の珍品」・レザースティック
次に、「かっさ棒」のような形状でお馴染みのレザースティックです。コードバンの表面を整えるために、あるいはレザーソールのケアのために、愛用している方もいらっしゃるでしょう。実はこれ、Abbeyhornの本国イギリスを含め、欧米の靴店にはまず置かれていない、極めて日本的な製品です。
Abbeyhorn社のラインナップにおいて、本来のコードバン用ツールは「Deer Polishing Bone(鹿の骨)」です。鹿の骨は天然の油脂を含んでおり、その油分が革に馴染みながら繊維を押し潰すのに最適だとのことです。
対して、現在日本で広く普及している角製のレザースティックは、Aldenの総代理店であるラコタハウスや、M.MOWBRAYを展開するR&Dなどの日本の企業が、Abbeyhornの高い加工技術を利用して企画した「日本限定の別注品」です。海外の靴好きに見せると「それは何だ?」と首を傾げられることが多いアイテム。
鹿の骨は割とシンプルな棒状ですが、角を削り出すにあたって、持ちやすさや力の伝えやすさを追求した結果、東洋の伝統的なマッサージ器具である「かっさ(刮痧)」の形状に行き着いたのかもしれません。あるいは、はじめはマッサージ用のかっさを靴ケアに使用(転用)していた人がいて、そこからのアイデアなのでしょうか。
実際便利に使っている人がたくさんいるようですので、良い製品ではあるのでしょうが、いわば「世界の珍品」。日本土産として買っていく海外の靴好きもいるとか。本国イギリスですら一般的ではない、ガラパゴス的進化を遂げた傑作とも言えますね。
スリーキングボーンと「ボーンチャイナ」の混同
もうひとつ、素材にまつわる奇妙な情報があります。鹿の骨で行うよりも更に細かい部分のケアを目的とした、「Sleeking Bone(スリーキングボーン)」という牛骨製の道具についてです。

シューホーン(上)とスリーキングボーン(下)
このヘラ状の道具の素材について、日本の一部のセレクトショップや販売サイトにおいて「牛骨粉を混ぜたボーンチャイナ(磁器)」であるというような説明が見受けられます。しかし、これも一次情報を辿ると誤りであることがわかります。
Abbeyhorn社が作っているのは、正真正銘、天然の牛の骨(Cow Bone)を削り出したもの。鹿の骨と同じく、天然の骨に含まれる油分と、粘りのある硬さこそが、革の繊維を寝かせるために効果的であるということです。Abbeyhornの公式サイトに加えて、「A Fine Pair of Shoes」や「Leffot」などの米英のセレクトショップの解説も見てみると面白いですよ。
ウェッジウッドやロイヤル・ドルトンなどの高名な窯元があるように、ボーンチャイナは確かにイギリスを代表する磁器です。でも、このAbbeyhorn社の製品の素材とは無関係。「ボーン」という言葉が、イギリス文化の中で磁器と結びついてしまったための誤解なのかもしれません。
Abbeyhornの価値を正しく知る
ここまで、日本に伝わる情報のズレを指摘してきました。しかし、これは決して「Abbeyhornの品質が悪い」という話ではありません。
「Cow Horn / Oxhorn(牛の角)」は水牛よりも透明感があり、模様の個体差が豊かで、工芸品としての美しさを楽しめます。また、日本独自の「レザースティック」も、本国の職人がその高い技術で日本の要求に応えたからこそ生まれたものです。
「なんとなく英国風がかっこいい」「水牛だからいい」という味わい方ではもったいない。
「水牛」なのか「牛」なのか。あるいは「磁器」なのか「天然の骨」なのか。 正確な事実を知ることは、270年以上の歴史を持つ英国のクラフトマンシップを、より深い敬意を持って楽しむことへと繋がるはずです。
